昭和五十六年二月五日 朝の御理解


御理解第七十六節
 人間は人を助ける事が出来るのは難有い事ではないか半馬は我が子が水に落ちて居ても助ける事が出来ぬ人間が見ると助けてやる人間は病気、災難の時神に助けて貰うのであるから人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ


 昨日は寒修業成就御礼会があのように盛大にございました。講師の先生のお話を頂いてそれから又先生を囲んでの座談会午前中はまあそういうわけでてんやわんやでしたが、午後は神愛会でございますから思いがけない先生方が集まられましたから、これも大変有意義な研修が出けました。
 いつも四時が終わって私はお風呂を頂き、そして先生方と一緒にお食事をさして頂くのですけれども、昨日、お風呂には入りましたら途中から例の体がきつくなって昨日はもう手も上らんというきつさです。けれどもそれを無理に上げるともう兎に角うずくように痛んです。もうとうとうフラフラしながらそのまゝやすませて頂いて先生方の夕食会にとうとう出る事が出けませんでした。私はやすませて頂くところに手の届く所にテレビがありますから、必ずテレビをこう引くです。そうするとそこにその、あのいうならいつも神の声を感じます。昨日もきついなりにこうテレビを引きますと、丁度マンガでどういう事があってもいるかというと朝はあんなに元気に出て行ったのに残念だったなあ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云うよる所でした。
 本当にそれでも私は思いますのに、それが勿論そのマンガですし、実祭は死んどらなかったのでせう。私はすぐ切ったけど、そういう感じでした。あれが朝出ていってそして帰ってこないから死んだというふうに云っておるというようなもんでしたけどね、私はやっぱり容易ならぬものを自分の体の上にも感じました。
 皆さん、どうでもそれこそいつ誰がどういう事になるとも限らんのです。昨日講師の先生が終わられまして、もう本当にもう、私共もこりあ合楽の信奉者全部の信心が又一つの転換期を与えられたような実感でした。皆さんのお届けをされるのも皆そうでした。終わった時にも今日のお話は本当にすばらしかった、もう兎に角親先生のいうなら御一生というようなものを皆が聞いたり実際にそれを知っておる方達がもう昨日の講師の先生のお話を頂いてもうそれを親先生の生き方と教祖様の生き方をこう二重写しにしたような感じでまあおかげを頂いたという人達のお届けがいくらもございましたが、私ねそれを感じました。
 そして本当にいうならば合楽の全信奉者の信心の転期、又新たなよい信心がこれから出けてくるだろうと転期を与えて下さる程のお話でしたね。皆さんどうでしたでしょうか。きっといよいよ光にいうならば輝く各々の信心をいよいよ頂かねばならん。昨日もう遅うに若先生が昨日先生方をお送りしてそれからその模様を報告に来てくれましたがもう合楽の信心というものは誇張いうならば宣伝もいらんで、分ってもらいたい分らせたいという事には必ずそこにはいうなら誇張があったり、いゝえほんなこうじあろうかと思わせるような事はいらない、もう神様が中に入って広まるとおしゃるそのとおりですねというてあの私にその先生が非常に感動して帰られてまあ合楽の御信者も今云うように合楽の転換期が来るだろうと思われる位におかげを頂いたと同時に先生も非常に先生の転期になるのじぁないかとひょっとすると合楽に修行にみえるかも分かりませんというてあの若先生が申しておりました。
 もうそういう例はあのおかげの中にあるのですから、本当に各々が、やはりおかげを受けなければ、例ば昨日の先生の後での座談会での話を聞かせて頂いたんですけれど、合楽の皆さんはいうならば先生、親先生の信心のいうならば重みを感じなければいけないというお話だったそうです。例えば今まで合楽の先生の信心を百作しかないと思うておったのを千作も万作もの重みで頂けるという事はそれを頂く人その人がおかげを頂く事です。そういう意味でね、私は一つのこれは御信者・信奉者の一つの転期を与えて下さったようなもんだ今度の寒修行はそういうおかげを頂かして頂いたんだというふうに思いました。
 これは私もまういうなら命のある限り人が助かる事の為のいうなら信心いうなら力も頂きたい。お徳も受けたい、昨日最後に先生はなかなかこの書道のまあをやっておられるそうですから、色紙やらそれから軸になるような大きなものも書いて頂きましたが、それにこういうような事を書いておられます。天禄永昌てんろくえいしょうと書いてある。天は天地の天、禄は元禄の禄ですね、禄高の、こゝでは「ろく」を徳というでしよう。いわゆるその禄なんです。禄高の禄です。ね永昌というのは永久の永です。昌は日ひを二つ書いた、あの昌まさという字ですね。日を二つ曰いわくという字を二つ書いた。天禄永昌。どういう意味ですかと云うたら、天から頂くおかげ、天の恵み天から頂くおかげはいつまでもまあ永久に頂けるものだという意味。いうならばお徳を受けて頂くおかげというのはこれはいついつまでも続くのだという意味だそうです。
 ですからそれを皆さんは頂かなければ駄目だというのです。百作の有難さを千作も万作もの重みをもったいうならば有難いもの、はあ金光教の信心に縁を頂いておった事が有難い合楽に御縁を頂いておった事が有難い、しかも初代の親先生の信心を実際に私共は受けさせて頂いたという事がこんなに幸せな事はないと誰でも云います。そのけれどもです同じ好きというてもこの位好きな人もありあこの位好きな人、もうこうしてこうするごと好きなもんもあるでせうが、分ったと云うても分り方によってもっともっと深く広くいうならば重みが出けるようないうならば、そう本当に合楽の場合は有難いなら合楽に御縁を頂いておる事が有難いなあというその思いがもっともっと深く広くいうなら合楽の信者・信奉者のいうならば信心の転期を感じるようなおかげを受けた人が昨日のお話を聞いておかげを頂いた人だと私は思うですね、どうだったでしようか。
 人間は人を助けるという事が出けるという事が有難い。ならば一人助けるよりも百人、百人助けるよりも千人も万人も助けられるような力を頂かなければいけんのです。それには、合楽に御縁を頂いておったという事がですこんなにも重みをもって頂けるという事だと思うんです。昨日研修、神愛買いの研修の時に家の先生方も先生のお話を頂いて座談会に参加した先生方が発表してましたが、一人一人の話がもうこの人達は一つの本当に今までの頂き方が間違っておったなあ、間違っとるわけじあないけれども、本当に軽かったなあとそれをなんか一段と重みをもって合楽を頂きなおそうといったような感じの発表ばかりでした。御信者の皆さんはどうだったでしようか。そこからね、私はその一人を助ける事が出来るよりも十人よりも百人も助けられるような力というものはそういうような事ではないかというふうに思います。
 先生のお話をまあ借りるとです本当に実際に人の助かりというかね、いうならば教祖金光大神の信心によってこれ程の御比礼を頂き表しておられる人に出会うという事は何んとすばらしい有難い事かという事が開口一番にお話なったでせう。なら合楽で今日いうなら或る意味においての真善美に輝くようなおかげを頂いてそれを実際に表しておるその表しておられる人に出会えるという事は始めて私との出会いをそのようなふうに頂いておられるのです先生は、そりあもう飾り言葉でも何でもない実感だったようであります。昨日勝彦が午後の福岡・太宰府かなんかへ御案内してあちらでお食事を差し上げたそうですがもうその間に先生から感じとらせて頂いた事、云うておられる事の端しばしから感じた事は、もう先生も大変なおかげを頂いて帰られたという事であります。こうやって日々はあ親先生があゝやって御理解下さったが夕方には冷とうなってござったというような事になるかもしれんもんね。こりあ分からんのですやっぱり、それこそ南無阿弥陀仏になるかも分らんのです。
 ですから本当にこうやってお互い生ある時をですもっと重く感じなければいけない。今日お生かしのおかげを頂いておるという事をもっともっと有難いものにしなければいけない。そしていよいよ有意義な一日にしなければいけない。そしていうならば自分の信心の光り輝くものをねいよいよ育てていかねばいけない。どんなにゴミの、その砂利、砂利の中に一粒のダイヤならダイヤが落ちておるとするとそれこそそこにさん然と光りがそこにある。必ず拾い上げられないはずがない。
 問題はだから誇張もいらなきゃ宣伝もいらない問題は自分自身が光り輝くような助かりを得る事なんだ。そこには、いうならばそれこそ宣伝はせんでも導かなくてもその人についてくる助かる人達が出来てくる事に違いはない。今日もこうやって御参拝が出けた御理解が頂く事が出けたというその御参拝が出けたという事にね今日も目覚ましのおかげが出来たという事にもっと重みを感じる信心を頂きたい。今日こうやって生なまの御理解が頂けれると、ねえという事にもっともっと有難いものを感じられる内容を作りたい。そして私は昨日の今年の寒修行は成就御礼を境にです、一段と私共の信心内容が頂いておるものは同じであってもそれに重みを感じられる各々の信心内容を頂けたいというふうに思います。
   どうぞ